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1868年の南マンハッタン地区メイデン通り81番地への移転は会社の発展を反映。
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1850年10月8日付けで署名されているファイザー社
ブルックリン工場の1,000ドル相当の抵当証書。
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1904年、写真撮影のため、前庭に集まったブルックリン工場の従業員。 |
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従兄弟同士のチャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトは、1840年代半ばドイツのルドヴィグスブルグから移民してきました。二人は裕福な家庭に育ちましたが、ともに冒険に焦がれ、アメリカこそ好機にあふれた土地だと考えたのです。
母国ドイツでは、チャールズ・ファイザーは薬剤師見習として化学を学び、一方、エアハルトは伯父のカール・フレデリック・ファイザーの下で修行して菓子職人になりました。渡米後、二人は協力して、1849年に化学会社チャールズ・ファイザー・アンド・カンパニーを設立し、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグ地区で操業を開始しました。
設立時より、同社は新しい事業分野を模索しました。二人は、アメリカ生産されていない特殊化学薬品を製造することがビジネスチャンスだと考えました。そして高価な輸入品に対抗して優位に立つことができたのです。
二人にとって最初の突破口は医療分野にありました。それはその後のファイザー社の発展の前ぶれとなるものでした。寄生虫の駆除に用いられるサントニンはよく効きましたが大変苦い味がしました。このサントニンにアーモンド・トフィーのフレーバーを加えることによって味を改良し、キャンデー状の錠剤に形作ったのです。この製品は直ちにヒットしました。その後10年以内にホウ砂、ショウノウ、ヨードをはじめ、10種類以上の化学薬品や医薬品の原末を製造しました。
チャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトは、起業家精神と夢を実現するためにはリスクも恐れない強靭な意志を備えた実業家でした。彼らは新天地で新しい産業の最前線に立っていたのです。工業化、輸送システム、技術、医学の進歩を背景にビジネスチャンスは開かれようとしていました。ファイザーとエアハルトは、世界が変化するのをのんびり構えて眺めるタイプではありませんでした。その好機を捉えたのでした。
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