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戦争中のペニシリン
需要に応えるため、
ブルックリン工場では
生産の限界まで稼動。

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アレクサンダー・フレミング
と一緒のグラディス・
ホビー博士。ファイザー社の
ペニシリンおよびテラマイシン®
開発チームの一員として
重要な役割果たす。 |
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第二次世界大戦で連合軍の
兵士の治療に用いられた
ペニシリンの重要性を
主張するポスター。 |
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ファイザー社は、深底タンク
発酵技術を採用してペニシリン
の量産に成功し、「奇跡の薬」
を製造する世界最大手となる。
ノルマンディー上陸時に連合軍
が携帯したペニシリンの
ほとんどかファイザー社製。 |
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米政府は1943年、特例を除き、ペニシリンはすべて軍需用に限定することを決めました。しかし、新薬の噂は直ちに広まり、生死の狭間にある患者の家族から新薬に対する切実な要望が殺到しました。
ファイザー社のジョン・スミス会長兼社長(当時)は近隣にあるブルックリン・ユダヤ教病院のレオ・ローウ医師から、亜急性細菌性心内膜炎で瀕死の状態にある少女を治療するためにとペニシリンを懇願され、大きなジレンマに悩まされました。スミスは面会に行くことを承諾し、スミスと後継者のジョン・マッキーンは早速その少女を訪れました。ペニシリンが完成する前に感染症で亡くしたスミス自身の幼い娘の姿が重なったのかもしれません。こうしてローウはペニシリンの提供を受けることになります。
当時ぺニシリンによる治療は亜急性細菌性心内膜炎に効果があるとは考えられていませんでしたが、ローウが行った点滴が効を奏し、少女は回復しました。医学界は驚嘆しましたが、ローウはこれに対し、今までの治療で医師たちは十分な量のペニシリンを投与していなかった、という簡単な説明で応えました。ローウはこの小さな思者に4000ユニットものペニシリンを点滴投与したのです。
ペニシリンをすべて軍需用に直接発送するよう政府命令が出されるまで、スミスはペニシリンをローウに提供し続けました。―方、このような政府命令が出たからといって、人々が病気にかからないわけではありません。ローウはスミスに患者の命を救うためにペニシリンの提供を依頼し続けました。まもなくスミスは解決策を見つけました。ファイザー社は毎月800万ユニットのペニシリンを自社での研究用に回すことを認められていました。スミスはその大半をローウに送ったのです。
医師が軍需品のぺニシリンを民需に不正利用している疑いで、国防調査審議会(NDRC)が一時期スミスとローウの取り調べを行ったことがあります。スミスを訴えることも検討されましたが、彼の行為は規制の範囲内とされました。やがて、ローウの劇的な成功を受けて、NDRCはペニシリンが亜急性細菌性心内膜炎に効果があると断定することになります。
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