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医薬品事業を遺したのがジョン・スミスならば、ジョン・マッキーンとジャック・パワーズは世界企業としてのファイザー社の将来を見通した先見者といえましょう。ファイザー社は1950年代に、数カ国における販売代理店のネットワーク化、世界各地における支店、子会社、そしてパートナーシップの設立を開始しました。画期的な製品ラインを拡大し、ファイザー社はまもなく国際的な大手薬品メーカーに成長しました。このような成功は、今日のファイザー社の推進力となっている不変の資質、つまり、ビジネス・センスと競争力、そして何より、人命を救う製品を世界中の人々に届けようとする確固たる決意からきたものにほかなりません。
第二次世界大戦後、アメリカの数多くの医薬品メーカーがペニシリン生産事業に参入し、ファイザー社は自国において不利な市場状況に対峙することになりました。しかし、他のメーカーがファイザー社の製造技術を模倣する一方で、ファイザーの旺盛な競争心は他社にとっては真似難いものであることが証明されました。当時、戦争中にペニシリンが大量に使用されたことによってファイザーの名が高く評価され、また、戦争で荒廃し病気が蔓延した国々で抗生物質が危急に必要とされていました。この様な状況の中で、数名の勇敢な人物が、今こそ積極的な海外事業の拡張を推し進める時期である、と判断したのです。
"私は、決してあの頃を忘れることはできません。失敗の経験すら無かったので過去に縛られることがありませんでした。「そんなことは出来っこない」というようなことをいう人は誰もいませんでした。一か八か賭けることができたあの時代は、楽しい思い出になっています。"
- ジョンJ.パワーズJr.,
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ジョン・マッキーン社長の補佐(当時)を務めるジョン・“ジャック"・パワーズJr.がその先導に当りました。1950年のある土曜日の長時間にわたる会議でパワーズは、後にファイザー社の海外事業展開に深く関与することになる数名の幹部に向かって、ファイザー国際部門の創設という野心的な計画を説明しました。パワーズは、当時としては膨大な額である「年間海外売上6,000万ドルの達成」をチームに求め、「各国の経済の研究、政府関係者との適切なコンタクトの確立、言語・歴史・慣習の習得、可能な限りの現地採用の実施」を促しました。パワーズの打ち出す方策はこのような簡単明瞭にして、確実に成功に結び付くものでした。
ファイザーの海外支社の増設に伴い、パワーズは世界を4つの地域(ヨーロッパ、西半球、極東、中東)に分け、本社の地域担当役員がそれぞれの地域の運営に当たりました。とはいえ、アルゼンチンからオーストラリア、べルギーからブラジルにまで広がる国々で海外部門の社員が次々にビジネスチャンスを発見するにつれ、実際の活動は本社のあるニューヨークから遠く離れた所で展開されるようになりました。他の企業では現地の運営は細部まで本社の方針に従って行われていますが、ファイザー社の現地企業にはかなりの自主性が認められ、本社の返答を何週間、何ヵ月も待つこともなく重要な決定を直ちに下すことができます。
ファイザー社は当初、国際部門には控えめにしか資本を投入しませんでしたが、同部門は直に、製造事業の拡張資金を賄えるほど十分な採算を上げるようになり、世界各地でファイザー社製品への高まる需要に応えるのに役立つようになりました。ファイザー・インターナショナルは1957年までに6,000万ドルの売上目標を上回り、米国の競合各社を遥かに凌いでトップに立ちました。
国際市場へのコミットメント、そこでの成功は今日まで続いています。1997年には、米国外におけるファイザー社の収入は、同年の社全体の総収益の45%を占める56億ドルの大台に乗り、その製品は150ヵ国以上の市場に出回っています。ファイザーの海外進出は、グローバルな成功を収めたのでした。
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