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Pfizer co.jp ホーム 会社案内 ファイザー日本法人の歴史 1965年 - 1973年ファイザー 日本法人の歴史1965年 - 1973年

飛躍に向けて、新たな冒険と挑戦へ

最新鋭工場「名古屋工場」の完成

草創期を過ぎ、新たな成長段階に入ったファイザー日本法人。その象徴ともいえるのが名古屋工場の完成です。この工場が完成した1967年を機に、見事な成長軌道に入っていきます。神戸工場から名古屋工場へ――ファイザー日本法人の新たな冒険と挑戦が始まりました。

本社移転、戦略策定、そして新工場の建設へ

-神戸工場から名古屋工場へ

設立後の約10年、生産体制の確立や販売網の整備、さらには積極的な人材採用など、経営インフラの構築に注力してきた台糖ファイザーは、1960年代半ば、日本経済が高度経済成長時代へと突入する中、未来に向けた新たな成長へと向かいました。

初代社長の益田克信からバトンタッチされ、新しく就任した成瀬会長とコーエン専務は、1965年の年頭所感で「我々は、新しい冒険と新しい希望達成の年を迎えようとしている」と宣言。同年2月には本社を東京日本橋の柳屋ビルに移転し、192名の社員を新たに採用。そして医薬品と農畜産事業の営業部門に経営資源を集中投下していくという基本戦略を策定し、さまざまな革新的施策に取り組んでいきました。

その中の一つが、地方駐在制度の導入でした。販売の質および量的拡大を図るべく、プロパーが各々の担当地域に居住し、生産性を向上させました。同時に、7人制の少人数グループの課を組織し、課長は部下の指導や育成に専念するようになりました。当時、このような営業体制は業界内でも珍しく、地域に密着して活動を行っていくファイザーの姿勢が、特約店をはじめ医師からも評価を得ました。

もう一つが、名古屋工場の建設。売り上げの伸長に伴い、生産量も拡大しつつあった1960年代前半には、神戸工場に代わるもっと大規模な新工場の必要性が高まりつつありました。当初は小田原に建設地を予定していたものの、将来の設備拡張を考えた場合、小田原の工場用地では不十分であるとされ、日本全国 20数カ所の候補地の中から、最終的には愛知県衣浦への新工場建設が決まりました。愛知県武豊町の衣浦湾に面した7万5千坪という広大な工場用地の買収は、社員はもちろんのこと、業界の注目を集めました。

業界トップクラスの最先端工場

名古屋工場の完成

1967年、新工場建設計画決定から約2年の歳月をかけて名古屋工場が完成しました。5月30日に開催された開所式には東京と大阪から2隻の客船がチャーターされ、約1500名の社員が新工場に集結。さらに1000有余名の取引先、関係先の方々を招き、式典は盛大に行われました。1965年の年頭所感での言葉通り、台糖ファイザーは新しい冒険と新しい希望達成への第一歩を踏み出したのです。

名古屋工場開所式では客船が
チャーターされ社員が集結

名古屋工場は、日本の医薬品業界の中でも最先端の水準にある工場でした。さらに1973年には基礎生産設備を大幅に増強して 200トンタンク5基を設置。約5倍の原末生産量を実現しました。しかし、設備の拡充はまだ緒についたばかりで、本格的な設備増強は1970年代後半まで待つことになります。

新工場が完成した1967年、台糖ファイザーの売り上げは100億円を突破。その後、会社の将来を左右するのは新製品開発であるとの認識から、名古屋工場内に薬理研究所と微生物研究所を開設、農産事業部の新薬上市に伴い飼料工場として第2製剤工場も増設されました。

この他に、研修センター「箱根アルパイン・ハウス」(当時)の建設や7年ぶりに紫野巖が社長に就任するなど、この時期、台糖ファイザーは新たな企業への転換を始めたといえるでしょう。そして、この時代のさまざまな施策が、さらなる飛躍の時代の布石となっていったのです。

船で運ばれてきた200トンタンク。
その大きさに人々は驚いた

日本法人の歴史

  • 1849年 - 1952年

  • 1953年 - 1964年

  • 1965年 - 1973年

  • 1974年 - 1982年

  • 1983年 - 1992年

  • 1993年 - 1997年

  • 1998年 - 2003年

  • 2004年 - 2008年

  • 2009年 - 現在

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