日本進出までのファイザー社の歩み
ファイザー社が「ファイザー田辺」として日本に進出したのは1953年のこと。ファイザー社にはすでに革新と冒険に満ちた100年の歴史があり、米国屈指の医薬品メーカーとして確固たる地位を築いていました。ここでは、日本進出以前の100年の歩みを振り返ります。
新天地アメリカに芽生えた成功の萌芽
1840年代半ば、ドイツのルドヴィグスブルクから2人の青年がアメリカに渡ってきました。一人は、母国ドイツで薬剤師見習いとして化学を学んでいたチャールズ・ファイザー、もう一人は菓子職人のチャールズ・エアハルト。従兄弟同士だった二人は、ともに冒険に焦がれ、新天地アメリカでのビジネスに大いなる夢を抱いて渡ってきたのです。
その二人が1849年に設立したのが、化学会社「チャールズ・ファイザー・アンド・カンパニー」であり、これがファイザー社の始まりです。
二人にとって最初の突破口は医療分野にありました。それは、その後のファイザー社発展の前触れとなるものでした。アメリカで生産されていなかった特殊化学薬品に着目した二人は、優れた技術と顧客志向の精神をもとに、口当たりの良い駆虫剤を開発。そのヒットを機にホウ砂、ショウノウ、ヨードをはじめ10種類以上の化学薬品や医薬品の原末を製造するなど、順調に業績を伸ばしていきます。
そして、1880年にはレモンとライムの濃縮液を使ってクエン酸を製造。さらに1919年に、輸入柑橘類からではなく、発酵プロセスによるクエン酸の量産に成功します。クエン酸は薬品、食品、ソフトドリンク、洗剤、工業用などに幅広く利用され、ファイザー社の主要製品としてその後の発展を支えていきます。
その名を広く知らしめたペニシリン工業化の成功
ファイザー社の名をさらに広く知らしめることになったのはペニシリンの工業化です。ペニシリンは1928年、細菌学者アレクサンダー・フレミングによって発見され、感染症との闘いに重大な医学的価値をもつものとされました。しかし、量産を可能にする工業化の目処が立たず、十分な量のペニシリンを生産することができませんでした。1941年、ファイザー社ではペニシリンの可能性に着目し、人命を救う新薬の量産を成功させたいという思いから、リスクの高い開発に着手。クエン酸生産で培われた技術を利用することで、当初の予想を5倍も上回る量のペニシリンの生産に成功したのです。
ファイザー社が開発した深底タンク発酵技術を用いたペニシリンの量産化技術がアメリカ政府から認められ、ファイザー社は同技術を競合メーカーに提供することで、第二次世界大戦中、19社がペニシリンの製造をアメリカ政府から委託されます。ファイザー社のペニシリンは兵士たちの傷をいやし、多くの人々の命を救うことに貢献しました。
米国のファイザー社から世界のファイザー社へ
ペニシリンの発見と生産は、医学の革新時代の幕開けとなりました。抗生物質がいかに重要な薬剤であるかを認識したファイザー社は、新しい抗生物質の発見に全力を注ぎます。そして1950年、広域抗菌スペクトル抗生物質の開発に成功。これを機に、ファイザー社は原末供給だけではなく、自ら開発した医薬品をファイザーブランドとして販売する医薬品メーカーに生まれ変わりました。
1950年代に入ると、アメリカ国内だけではなく海外にも目を向け、積極的な海外進出を展開。世界各地における支店、子会社、パートナーシップの設立など、米国のファイザー社から世界のファイザー社へと成長を遂げていきます。
そして1953年、ファイザー社の目はこの極東の日本へと向けられたのでした。
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