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ファイザー株式会社 Working together for a healthier world より健康な世界の実現のために
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米国本社の歴史 1849年~1899年

医療フロンティアにおけるパイオニア精神

ファイザー社の歴史は、大胆な決断に満ちた革新と冒険の歴史です。これは「人々の生命と健康への寄与」という崇高な目的を持った企業を創り上げることに力を注いだ人々の実話であり、また、ニューヨーク市ブルックリンに設立された小さな化学会社が、やがて世界的なヘルスケア企業となるまでの道程でもあります。
自ら様々な疾病領域を対象に優れた医薬品を生産し、卓越したプロダクト・パイプラインを持つばかりでなく、他メーカーが画期的な医薬品を市場に導入するにあたっては最強のパートナーといわれています。

ファイザー社は、「医薬品業界の新たなリーダーの台頭」と ビジネスウィーク誌に記されています。

ファイザー社では、未知の領域を克服することが伝統として受け継がれています。誰も他に取り組む者のいないような難関に何度も何度も挑戦することによって、我が社の姿が形作られたのです。私たちの進取の精神が偉大な功績を可能にしたのです。-会長兼CEOウィリアム C.スティアJr.

ファイザー社を創設した二人のチャールズには、彼らの会社がその後歩んだ道も、医学の進歩に果たした貢献も想像さえできなかったでしょう。しかし、ファイザー社で150年間にわたって培われてきたパイオニア精神を植え付けたのは他でもなくチャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトだったのです。

Pfizer cousins Pfizer cousins

1840年代半ば、従兄弟同士のチャールズ・ファイザー(写真左)とチャールズ・エアハルト(写真右)は新事業の夢を抱いて渡米。

このウェブサイトでは、革新の精神と、いかなる困難にも屈さない忍耐をもって絶えず自ら新たな局面に押し上げ、医療フロンティアを開拓してきたファイザー社の歴史を記したものです。

old brooklyn

1851年当時のブルックリン。最初のファイザー社工場敷地近くから対岸のニューヨークを眺めた風景。

1849 新天地アメリカに到着

Arriving in America従兄弟同士のチャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトは、1840年代半ばドイツのルドヴィグスブルグから移民してきました。二人は裕福な家庭に育ちましたが、ともに冒険に焦がれ、アメリカこそ好機にあふれた土地だと考えたのです。

母国ドイツでは、チャールズ・ファイザーは薬剤師見習として化学を学び、一方、エアハルトは伯父のカール・フレデリック・ファイザーの下で修行して菓子職人になりました。渡米後、二人は協力して、1849年に化学会社チャールズ・ファイザー・アンド・カンパニーを設立し、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグ地区で操業を開始しました。

設立時より、同社は新しい事業分野を模索しました。二人は、アメリカ生産されていない特殊化学薬品を製造することがビジネスチャンスだと考えました。そして高価な輸入品に対抗して優位に立つことができたのです。

二人にとって最初の突破口は医療分野にありました。それはその後のファイザー社の発展の前ぶれとなるものでした。寄生虫の駆除に用いられるサントニンはよく効きましたが大変苦い味がしました。このサントニンにアーモンド・トフィーのフレーバーを加えることによって味を改良し、キャンデー状の錠剤に形作ったのです。この製品は直ちにヒットしました。その後10年以内にホウ砂、ショウノウ、ヨードをはじめ、 10種類以上の化学薬品や医薬品の原末を製造しました。

チャールズ・ファイザーとチャールズ・エアハルトは、起業家精神と夢を実現するためにはリスクも恐れない強靭な意志を備えた実業家でした。彼らは新天地で新しい産業の最前線に立っていたのです。工業化、輸送システム、技術、医学の進歩を背景にビジネスチャンスは開かれようとしていました。ファイザーとエアハルトは、世界が変化するのをのんびり構えて眺めるタイプではありませんでした。その好機を捉えたのでした。

81 maiden lane   mortgage for pfizer's brooklyn plant
1868年の南マンハッタン地区メイデン通り81番地への移転は会社の発展を反映。   1850年10月8日付けで署名されているファイザー社ブルックリン工場の1,000ドル相当の抵当証書。
employees gather for photograph

1904年、写真撮影のため、前庭に集まったブルックリン工場の従業員。

1880 リスクを恐れず新たな挑戦

Taking Risks To Meet New Challenges 19世紀半ば以降、ファイザー社は発展に伴って多角化を図る一方、高い製品品質、技術力、信頼性、そして顧客志向で定評を得るようになりました。反面、原料を輸入に依存していたため、原料の値上げや品不足に左右され易いという問題もありました。第一次世界大戦中、ファイザー社の最も重要な製品といえるクエン酸の製造に必要な原料の供給が途絶えたとき、工場を閉鎖するか、製品を完成させるために別の方法を見いだすか、2つの選択肢しかありませんでした。

listener's urged to buy war bonds

ファイザー社のブルックリン工場での第一次世界大戦集会で、戦争債の購入を勧められている聴衆。ファイザー社の従業員には祝祭日ボーナスとして「リバティーボンド」を支給。

数十年にわたってクエン酸はファイザー社の最も親しまれた製品でした。もともとレモン、ライム、サワーオレンジなどの柑橘類の汁を処理して作られたクエン酸は主に薬として用いられたほか、食品、ソフトドリンク、洗剤、工業用に利用されていました。1880 年までは原料のほとんどがイタリアから輸入されていましたが、不穏な政情と予測不可能な気候のために原料価格が大幅に変動し、供給も不安定でした。 1914年第一次世界大戦の勃発で、イタリアからの輸入が完全に途絶え、ファイザー社は他の供給元を探すこととなります。

ジェームズ・カリー博士が入社した1917年、新しい時代が幕を開けました。政府機関の食品化学者として、カリー博士はチーズ製造工程における発酵作用を研究していましたが、その工程の副産物にクエン酸があることを発見しました。他の科学者も数十年前からその存在を認めてはいましたが、それに秘められた可能性には気付きませんでした。カリーは砂糖とパンのカビを使って―連の発酵実験に着手し、少量のクエン酸を生産することに成功しました。とはいえ、この物質を量産するということは別のことでした。カリーはこの挑戦に取り組むためファイザー社に入社したのです。

Alexander Fleming

ペニシリンの発見者アレクサンダー・フレミング
(リンカーン研究所にて)

ファイザー社では、カリーと助手のジャスパー・ケインが極秘のうちに研究を進めました。次第にプロセスを改善し、砂糖クエン酸転換(SUCIAC)というプロセスを開発しました。ファイザー社はこのプロセスに賭けるため、当時まだ十分採算性のあったホウ砂とホウ酸の生産施設をSUCIACに全面転換するというリスクを敢えて選択しました。やがて、SUCIACによる生産が柑橘類からの従来の抽出方法を上回るようになり、1929年までには輸入柑橘類を全く必要としなくなっていました。ケインは続いて、原料として精白糖ではなく糖蜜を使った深底タンク発酵の開発に取り組みました。当時はそのことが持つ深い意味を知る人はだれもいませんでしたが、このプロセスこそが後にぺニシリン量産の秘密を解き明かすことになるのです。

citric acid

ファイザー社発展の土台となったクエン酸は、この種では世界初の施設であるブルックリン工場で製造。

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