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Pfizer co.jp ホーム 会社案内 ファイザー社(米国本社)の歴史 1900年-1950年 ファイザー社(米国本社)の歴史1900年-1950年ファイザー​​​​​​​日本法人の歴史

1928年世界を変えたカビ

人間は300万年以上にわたり、病原菌と闘い続けてきましたが、この数千年間、病原菌が勝利をおさめてきました。ペスト、チフス、インフルエンザをはじめとする感染症によって多くの命が奪われました。1928年、アレクサンダー・フレミングによるペニシリンの発見で、ついに近代医学の夜明けが訪れ、感染症との闘いに確かな希望が生まれました。後にファイザー社がぺニシリンの量産工程を開発し、第二次世界大戦で無数の命を救いました。しかし、それまで広く人々の治療に役立てられるだけの十分な量のペニシリンを生産することはできなかったのです。

戦争中のペニシリン需要に応えるため、ブルックリン工場では生産の限界まで稼動。

アレクサンダー・フレミングと一緒のグラディス・ホビー博士。ファイザー社のペニシリンなどの®開発チームの一員として重要な役割果たす。

1928年、細菌学者アレクサンダー・フレミングはアオカビから分泌される「カビ汁」の殺菌作用を発見したとき、それには重大な医学的価値がありえることを知っていました。しかし、実用に役立てるほど十分な量のペニシリンを生産することができず、せっかくの発見も研究室での単なる珍奇として葬られてしまいました。それから10年後、オックスフオード大学の研究者のグループがフレミングの研究を再発掘しました。しかし、ペニシリンの驚くべき作用を証明する数々の実験結果を主張しながらも、第二次世界大戦の禍中にある英国の企業を動かすことができず、同科学者たちはアメリカに援助を求めました。

1941年、ファイザー社のジョン・ダべンポートとゴードン・クラグウォールが出席したシンポジウムで、コロンビア大学の研究者が、英国の科学者の研究に基づいてペニシリンが感染症の治療に効果的であることを示すデータを提示しました。二人はその可能性に共鳴し、ファイザー社からの援助を申し出ました。同年、ファイザー社は米政府の呼びかけに応え、世界初の「奇跡の薬」の量産方法を開発するという道を選択しました。

コロンビア大学のチームと共同で発酵実験を手始めに、ファイザー社は向こう3年間にわたってペニシリン生産に専念しなければならないという大きなリスクを受け入れました。この物質は非常に不安定であり、最初の生産量は意気消沈するほど少量でした。しかし、ファイザー社は、人命を救う新薬の量産に必ずや成功すると決意を固めていました。

1942年秋、ファイザー社の科学者、ジャスパー・ケインは、これまでとは根本的に異なるアプローチを提案し、クエン酸の生産に成功したと同じ深底タンクを利用してペニシリン生産を試みることを会社側に提案しました。これは、ペニシリンの開発に焦点を当てている間、クエン酸やその他の既存製品の生産を縮小する必要があるため、途方もないリスクといえました。また、極めて移動性の高いペニシリン胞子に既存の発酵施設が汚染される危険にさらされることにもなります。

ファイザー社の経営陣はブルックリン工場の小部屋で会合を開いて選択肢を検討し、決断をしました。ファイザー社株主としての自らの資産を賭けてまで数百万ドルにのぼる資金を深底タンク発酵プロセスに必要な装置と施設の購入に充てることにしたのです。ファイザー社は、使われていなかった近くの製氷工場を買い上げ、従業員が24時間体制で工場の改造に当り、複雑な生産工程を完成させました。同工場はわずか4ヵ月の内に操業を開始し、ファイザー社はまもなく当初の予想を5倍も上回る量のぺニシリンを生産することができるようになりました。

ファイザー社が開発したプロセスの秀逸さを認め、戦地で使用することの出来る大量のペニシリンを渇望していた米政府は、この深底タンク発酵技術を利用して抗生物質を生産することを19社に許可しました。これは、ファイザー社が同技術を競合メーカーに提供することに合意した結果、実現したものです。ファイザー社の技術を採用したにもかかわらず、ファイザーの生産レべルと品質に追いつけるメーカーはありませんでした。事実、1944年のノルマンディー上陸の際、連合軍が携帯したペニシリンの9割を、また、それ以降、終戦までに連合軍が使用したペニシリンの半量をファイザー社が生産し、無数の人命を救うことに貢献しました。ペニシリンは、バクテリアによる感染から真に人を守る、人類の歴史上初の手段だったのです。

第二次世界大戦で連合軍の兵士の治療に用いられたペニシリンの重要性を主張するポスター。

ファイザー社は、深底タンク発酵技術を採用してペニシリンの量産に成功し、「奇跡の薬」を製造する世界最大手となる。
ノルマンディー上陸時に連合軍が携帯したペニシリンのほとんどがファイザー社製。

1949年ファイザーの誕生 抗生物質の時代をリード

創設後100年にわたり、ファイザー社の製品はバルクで他社に売られ、そこでパッケージ化され、他社ブランドで市場に出ていました。しかし、1940年代後半の新抗生物質の発見を契機に、ファイザー社として独自のブランドを展開する時が訪れたことを感じていました。

ペニシリンの発見と生産は、医学の革新時代の幕明けとなりました。ファイザー社の科学者たちは治療に役立つ新しい微生物を発見するために集中的な探索を開始しました。バクテリアと闘う微生物は土壊中に発見されるという当時新たに注目を集めた説に基づいて、ファイザー社は世界各地の土壌収集と試験のプログラムに取り組みました。計135,000の土壌サンプルを収集し、2,000万件以上の試験を実施しました。研究者のひとりは「炭坑の奥や海底、砂漠、山の頂、ふもと、そして中腹からも採取しました」と語っています。

ファイザー社は遂に、様々な種類の恐ろしいバクテリアに対して有効な物質を発見しました。これはファイザー社が単独で発見し開発した最初の製品として、ラテン語の「大地」を冠とした広域スペクトル抗生物質が誕生しました。

広域スペクトル抗生物質の市場導入。
この世界的な成功により、ファイザー社は本格的な医薬品メーカーに変身。

1950年3月15日にFDAから許可が下りたとき、特殊トレーニングを受けたファイザー社の8名の医薬品営業担当者が、全米各地の公衆電話でゴーサインが出るのを待ち受けていました。彼らは在庫を卸業者に向けて出荷し、ファイザーブランドの最初の新製品について医師に紹介するために奔走しました。このような販売・マーケティング組織は先進的といえるもので、後に業界最良の組織との評価を受けることになります。こうして強力な医薬品メーカーが新たに誕生したのです。

ファイザー社は大掛かりな土壌スクリーンを行い、その結果、自社の研究者の発見・開発による初めての広域スペクトル抗生物質を見出した。

米国本社の歴史

  • 1849年 - 1899年

  • 1900年 - 1950年

  • 1951年 - 1999年

  • 2000年 - 現在

インパクト(ESG)レポート2023(英語:PDF)

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